♯006 バッファローの白い息

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「良い夢を見させて下さい…」

彼女は頭蓋骨に語りかけます。

人が夢を見る時は魂が身体から離れて「スピリットの領域」を旅してまわると言います。そこでは様々なスピリットと出会い、新しい知識や知恵を学ぶ事が出来るのでした。

「夫に狩られる事でどんなに持て成されたか、皆に伝えて下さい…」

彼女は頭蓋骨に装飾を施します。

動物に敬意を払い粗末な扱いをしなければ「動物のスピリット」は喜び、たくさんの動物を放ってくれますが、反対にスピリットを怒らせてしまうと動物を放ちません。動物が姿を見せなければ人は餓えてしまうのです。

「良い夢をもたらして下さい、おじいさん…」

狩人は頭蓋骨を枕元の柱に結びつけます。

そして狩人は眠りに就くのです…

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15世紀末、ヨーロッパの食指はついに「新大陸」を捉えます!1534年、ジャック・カルティエはガスペ半島に「フランス王万歳」と刻まれた十字架を建て、そこがフランス領土である事を宣言しました。その後フランスは、17世紀初頭にヌーベルフランスやアカディアといった植民地を創設します。一方イギリスは、ジェームズタウンを足掛かりに植民地を拡げていき、17世紀中頃にはハドソン湾及びその流域を押さえました。

そして1755年、北米での覇権を賭けて両雄は激突します!

戦いに負けたフランスは北米からの撤退を余儀無くされ、アカディア住民は追放、ヌーベルフランスはイギリス領ケベック植民地となり、フランス系住民はイギリスの支配下に置かれたのです。

北米での覇権を確立させたイギリスは、国力増強の為に植民地に対して税金を賦課します。これに抵抗した13植民地は1776年に独立を宣言してアメリカ合衆国を建国しますが、独立に反対したロイヤリスト達はケベック植民地やノバスコシア植民地に移住し、新たにニューブランズウィック植民地が創設されるなど、カナダ地域のイギリス系住民は増加します。また、ケベック植民地はフランス民法が布かれていた為にイギリス系住民は困惑し、遂にはイギリス系のアッパーカナダとフランス系のロワーカナダに分割しますが、それは1791年の事でした。

その後、1812年の英米戦争では侵攻してくるアメリカ軍を撃退するものの、超大国アメリカの脅威に晒された北米イギリス領では連邦化構想の気運が高まります!

そして1867年7月1日、アッパーカナダはオンタリオ州に、ロワーカナダはケベック州になり、さらにノバスコシア州、ニューブランズウィック州の計4州から成る自治領カナダ「ドミニオン・オブ・カナダ」が誕生しますが、そのコンフェデレーションは確かにカナダの原型となったのでした!

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バンクーバー・オリンピックが開幕して今や大注目のカナダですが、それにしてもカナダと聞いて最初に思い浮かべたのはビッグ・ボンバーズのカナディアンマンだというのは私だけじゃないはずです!アン・シャーリーに憧れた女性もいるかも知れませんね!

ついつい強烈なインパクトを持った超大国であるお隣さんに目を向けてしまいがちですが、カナダにも当然の事ながら建国の歴史があり、そのアイデンティティは力強く脈打っているのです!

しかしながら、それがカナダ建国への過程であったとしても、歴史が「人間の営み」を言うのであるならば、カナダの歴史を語る上で先住民の存在を忘れる事など到底出来ません!

そもそもアメリカ大陸史においてまず確認しておかなければならない事は、アメリカ大陸は「発見」されたのではないという事であり、西洋中心史観では語り切れないという事です。そこは未開の地ではなく、数千年もの昔から人間の営みは脈々と受け継がれ、豊かな文化が育まれてきたのです!

ただし先住民にとっての悲劇は、異文化遭遇がもたらしたものが西洋人社会の長期的繁栄と先住民社会の壊滅的危機だったという事であり、彼等の伝統的な生活・信条・アイデンティティは西洋人が持ち込んだ鉄器・病原菌・アルコールによって悉く破壊されたという事なのです!

そしてヨーロッパからの移住者が増えていく事によって植民地が拡大されていく中で、先住民は土地を追われていく事になるのですが、それはカルティエが当たり前のように十字架を建てた事が全てを物語っているのかも知れません…

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カルティエも接触したと思われるイロコイ族は6つの部族(カユガ、モホーク、オネイダ、オノンダガ、セネカ、タスカローラ)による連邦制度を布いていました。彼等の村落であるスタダコネ・オシュラガでは、長屋(ロングハウス)にて数家族が同居し、狩猟や三姉妹(トウモロコシ、カボチャ、豆)と呼ばれる作物を耕す農耕民でしたが、いざ戦いとなると勇猛な戦士でした。モホーク族の髪型はモヒカン刈りのルーツの一つです。

ヒューロン族モンタネ族は優秀な商人でした。彼等の交易慣習は西洋人来訪以前に遡りますが、毛皮交易において、彼等は西洋の物品をより安く仕入れる為に船が何艘も到着するまで商談を始めません!その上で安く仕入れた物品を内陸部の部族へ高く売りつける、もちろん内陸部の情報は西洋人には簡単には教えません!なるほど彼等はやり手です。

大陸北東部のオジブワ族は悪夢を追い払う魔除けとしてドリームキャッチャーを作り、ティピーウィグワムといった住居を構えます。メープルシロップも彼等の貴重な食材でした。大陸東部のミクマク族は独自の象形文字を持ちます。大陸西部のカウチン族の伝統的な幾何学模様は、後に西洋の編み物技術と融合して巷で流行のカウチンセーターを生みました。大陸北西部のトリンギット族ハイダ族など複数の部族の間では、トーテムポールと呼ばれる柱を立てて一族の歴史などを彫刻しており、現在カナダの世界遺産であるスカン・グアイにはハイダ族のトーテムポールが数多く残っています。ポトラッチと呼ばれる儀式も彼等の伝統において重要な位置を占めています。同じくカナダの世界遺産であるヘッド・スマッシュ・イン・バッファロー・ジャンプは、かつてブラックフット族が狩りのためバッファローを崖に追い込んで突き落としていた場所でした。

クリー族を始め、多くの部族の間では特別な存在でした。彼等の神話や伝承、成人への儀式やシャーマンの修行などでは、人食い怪物であったり慈愛に満ちた存在であったり、力や知恵の象徴であったりと様々な役回りで登場します。「恐れ」が「畏れ」に変わりうるならば、人間の脅威の代表は熊だったのかも知れません。母熊の子熊に対する献身的な愛情に、深い感動を覚えた事もあったのでしょう。冬眠を「生死を繰返す命の象徴」と捉えるのは世界的なインスピレーションです。同じように森や平原を歩き、魚を捕り、山菜や木の実を食べる…そんな熊に対して彼等は親しみと敬いと感謝の心を込めて言うのです。「良い夢をもたらして下さい、おじいさん…」

イヌイットとは、彼等の言葉で「人々」という意味になります。極北ツンドラ地帯に住む彼等はエスキモーと呼ばれますが、これはオジブワ族などのアルゴンキン語系の言葉で「生肉を食う輩」に由来するとされ、蔑視的な表現との事からカナダではイヌイットを公式な民族名称としており、彼等も自称しています。一方で「カンジキの網を編む」という言葉に由来するという説もあり、実はアラスカ先住民はエスキモーを自称しています。

メティとは、主に西洋人男性と先住民女性の間に生まれた混血の者で、語源はラテン語です。彼等は英語や仏語の他にミチフ語という混合言語を使用します。彼等もまた、不遇の歴史を歩んだ先住民でした。

ファーストネーションとは、イヌイット・メティ以外のカナダ先住民族の総称です。

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現代社会において、貧困や自殺といった問題が先住民社会を取り巻いている事実を考えれば、先年に隣国で先住民が独立国家を宣言した気持ちも分からなくもありません。そこにはミクロネーションなどという言葉で片付けるわけにはいかない数千年の重みがあるのです!

しかし、今や「旧に復す」だけでは真の意味での自主独立は成し得ないはずです!

日本に生まれ、当たり前のように日本人でいる私には、彼等の悲痛な想いは到底理解出来ないのかも知れません。彼等の望みは至極純粋なものなのかも知れません。ですが、もはや一処に留まれるものなどないのです。

彼等が巨大な統一国家を成していたならば果たして歴史は?…と考えてみても詮無き事。ましてやアステカやインカの結末を思い起こせば、それが単なる愚想なのだと痛感させられます。

しかし、それが彼等の文化を否定する事には決して繋がりません!遥か昔にベーリング海峡を渡って「カナダ」に根を下ろして以来、彼等は産み、自然に学び、時に戦い、そして伝え続けてきたのです!それは語り継ぐべき人類の歴史です!

彼等の伝統的な言語やライフスタイルが薄れている事は否定出来ません!民族の特質による差別の排除と権利の認知を同時に行う事が実は難しいという事も重々承知です!しかし、異文化遭遇の先に未だ見ぬ「結末」を迎える事が出来るならば…

受け継がれるべきは「スピリット」です!彼等は生きているのですから!

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どこよりも逸早く多文化主義を取り入れたカナダ…
数千年もの昔から脈々と続く先住民世界もカナダ…
十字架を建ててカルティエが宣言したのもカナダ…
イギリスがフランスに取って変わったのもカナダ…
イギリスと決別をしたドミニオン・オブ・カナダ…

社会的・政治的改革を求めて静かな革命を起こしたケベックもカナダ…
英仏系以外に多くの移民を抱えている人種のモザイクとしてのカナダ…
経済・文化の主体性を滅ぼすアメリカ資本・思想の脅威に抗うカナダ…

様々な背景の中でカナダのアイデンティティは力強く脈打っています!
はたして、カナダの多文化主義はナショナリズムを超えるでしょうか?

しかし、それはまた別のお話…

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「真の知恵は、人々から遠く離れた大いなる孤独の中でのみ見出される。しかもそれは、苦しみを通してのみ得る事が出来る。孤独と苦しみこそ、眼に見えないものに対して心を開かせてくれるのだから。」
イグジュガルジュック(イヌイット)

「我々の言う事にさえ耳を貸さない彼らですから自然の声に耳を傾けるはずもないのです。けれども樹々は色々教えてくれます。天候や動物の事、そして時にはグレート・スピリットの事を。」
タタンガ・マニ(ストーニー族)

「理性ある存在としての尊厳もなく、生き長らえる事など意味がない。」
ルイ・リエル(メティ)

「私は自分自身や自分の生き方の主人として振舞う事が出来る。ところが、あなたは自分よりも高い地位にある人の持つ力に頼って生きている。どうだ!私の言っている事は間違っているか?」
コンディアロンク(ヒューロン族)

「人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光、冬の寒さに浮かぶバッファローの白い息、草原を横切り夕日の中に消えていく小さな影。」
クロウフット(ブラックフット族)

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参考

◆「はじめて出会うカナダ」(有斐閣)
日本カナダ学会 編

◆「カナダのナショナリズム ―先住民・ケベックを中心に― 」(三交社)
ラムゼイ・クック 著  小浪充、矢頭典枝 訳

◆「クマとアメリカ・インディアンの暮らし」(どうぶつ社)
デイヴィッド・ロックウェル 著  小林正佳 訳

◆「風のささやきを聴け」(めるくまーる)
チーワ・ジェームズ 編  ハーディング・洋子 訳

◆「インディアンの言葉」(紀伊國屋書店)
ミッシェル・ピクマル 編  中沢新一 訳

◆「極北の民 カナダ・イヌイット」(弘文堂)
岸上伸啓 著

◆Wikipedia

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♯005 兵どもが夢の跡…

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その日、混乱冷めやらぬ鎌倉に又も激震が走りました!

平頼綱(たいらのよりつな)、死す。」

その衝撃は各地を駆け巡ります!そして、報せは鎌倉から遠く離れた肥後国海東郷にも届いたのです。

報せを受けた彼の心境たるや如何ばかりか…

彼がこの地の地頭となって、すでに20年近くの歳月が経過していました。彼は民百姓を気遣い、交易に精を出し、神仏を尊び、それは見事にこの地を治めていたのです。

そんな彼もかつては無足の身…今の自分がこうしていられるのも貴方のお蔭ですと、今は亡き大恩人への追悼の思いを噛み締めながら、そう独りごちていたのかも知れません。

共に国難に当たってはその心意気を誉め、健気な直訴を聞き入れてはその武功を認め、二度目の大戦においてはその働きを称えてくれた…

その恩情に報いる為にも、彼は鎮魂と報謝の念を込めて「綴る」のです。

時は正応6年(1293年)初夏の頃…

彼の名は竹崎季長(たけさきすえなが)、激動の鎌倉時代末期を生き抜いた御家人でした。

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訴訟敗れて 明日も無足 季長一党 ここにあり!

手柄立てるは 一番乗りぞ 景資(かげすけ)誉める 心意気!

毒矢銅鑼の音 何するものぞ 馬駆け賞賭け 命懸け!

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所領を安堵する「御恩」に対して公事・軍事的に「奉公」する、それが鎌倉幕府における将軍と御家人の関係でした。御家人、つまり武士にとって所領安堵こそが一番の望みだったのです。

そもそも武士とは、その起源が何であれ武を以て家を成してきた者達です。

武士にとって所領とは、まさしく祖先が「武を以て家を成し」て治めてきた土地なのです。それは単なる経済基盤ではなく、祖先の武名が生きて魂が眠る場所なのです。まさに「一所懸命」と言われる所以です!

しかしながら、中世武士の遺産相続は分割相続を行います。武家の者は遺産たる所領を分割しながらも、同じ一門として惣領の指揮の下に庶子達が結集するという体制をとっていました。すると当然、代が重なれば一人当たりの土地が小さくなってしまいます。血縁の結びつきも希薄になるというものです。

そして13世紀も末になると惣領制支配は弱まり、惣領の命令に背いて独立を希望する庶子も増えてくるのです。幕府に正式に独立を認めてもらうべく申し立てする者も出て来ます。しかしそれは、惣領との対立にも繋がるわけであり、おそらく相続の際に土地を巡る身内同士の争いが起きる事もあったでしょう!

その結果、大事な所領を他の者に奪われる事もあったのです。そんな彼等は何としても手柄を立てて新たに所領を得る必要がありました!

鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡(あずまかがみ)によれば、「武士たる者は自らの所領によって自活すべきであり、所領を持たずに他の武士の援助によって生活している者は、独立の武士とは言えない…」との記載があると言います。

やはり武士の本懐を遂げるには「所領」が不可欠なのです!

「無足の身」であった竹崎季長は、さぞ辛い思いをした事でしょう…

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出家覚悟で いざ鎌倉へ 御恩奉行も 骨折れる!

馬に所領に 故郷に錦 ころはた差さむ 肥後もっこす!

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弘安7年(1284年)、御恩奉行も務めた鎌倉幕府の重鎮である安達泰盛(あだちやすもり)は、幕府の基盤強化の為に幕政改革を推し進めます。将軍の権威を発揚させ、御家人を保護し、幕府主導による政治体制を確固たるものにしようと考えたのです。後に「弘安徳政」と呼ばれるその改革は、さらなる蒙古襲来を見据えると共に、北条得宗家の権力を抑制するという目的もありました。

これに対抗するのは、平頼綱を筆頭とする北条得宗家の御内人でした。御内人とは得宗家に仕えた武士の事です。しかし、この時の得宗である北条貞時(ほうじょうさだとき)は13歳であった為、平頼綱が実際の指揮を取っていました。

両派の対立は日を追うごとに激化、ついに臨界点に達します!

弘安8年(1285年)、北条貞時の邸に出仕した安達泰盛が御内人に襲撃されるという事件が発生します。これがきっかけとなって戦となりましたが、後手に回った安達方は苦戦を強いられました。そして、将軍御所は延焼、安達泰盛は自害、安達方は敗北を喫しました。

両派の争いは鎌倉だけに止まらず、各地で勃発します!九州では、父である安達泰盛の代理として肥後守護の政務にあたっていた安達盛宗(あだちもりむね)が、蒙古襲来の際に日本勢を指揮した少弐景資(しょうにかげすけ)らと共に戦いますが、善戦むなしく敗死しました。

安達一族ならびに各地の安達派の御家人の多くが、この戦いで命を落としたのです。

安達泰盛の改革は撤回され、北条得宗家の権力はますます旺盛になりました。それは同時に、平頼綱の権勢が強化される事を意味します。そして、幕政を意のままに操る平頼綱の恐怖政治が始まるのです。

しかし、成長した北条貞時は、次第に平頼綱の専制に不安を抱くようになりました。或いは不満を抱いたのかも知れません。そんなある日、鎌倉を大地震が襲います!鎌倉は騒然となりましたが、北条貞時はその混乱に乗じて平頼綱を襲撃、自害へと追い込みます。平頼綱による恐怖政治は幕を閉じました。

時は正応6年(1293年)初夏の頃…

その後、安達氏は幕府中枢に復帰していく事になります…

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二度の襲来 船を乗り継ぎ 脛当(すねあて)被って 大手柄!

鷹島奇襲の 戦後報告 大した奴よと 守護代理!

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その絵巻物は後に蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)と呼ばれ、当時を知る為の貴重な文化財として現代に伝わっています。そこには大恩人に対する鎮魂と報謝の念と、ダイナミックに生きた一人の御家人の姿が描かれているのです。

彼は日々の暮らしもままならぬ無名の若者でした。しかし、自分の「弓箭の道」を信じ、ただただ一生懸命に生きたのです!そういう者にこそ「神風」は吹くのかも知れません!

まさに人間・竹崎季長の命が溢れんばかりです!

文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)の蒙古襲来は、日本にとって「未曾有の危機」でした。しかし、そんな激動の時代でも彼のような名もなき武士達は自分の「生」を貫いたのです!蒙古・高麗軍の意図や戦力はどうあれ、それに打ち勝ったのは確かに「日本の力」でした!それは語り継ぐべき人類の歴史です!

そして現代、日本は新たな「未曾有の危機」に直面しています!「政権交代」が流行語大賞になるという事は、それだけ変革が渇望されているという事なのでしょう!

奮い立て!覚悟を決めよ!激動の時代だからこそ立ち上がるのだ!武士(もののふ)の国の子らよ!

「草食男子」の諸君!肉を食おうじゃないか!肉を!

「歴女」のみなさん!今度ヒストリカルトークで盛り上がりましょうね~♪

それでは皆様!良いお年を…

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参考

◆「鎌倉びとの声を聞く」(NHK出版)
石井進 著

◆「鎌倉武士の実像 ―合戦と暮しのおきて― 」(平凡社)
石井進 著

◆Wikipedia

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♯004 壁とオペラと赤い海

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戦争が他の手段をもってする政治の継続であるならば、後に続く復興こそが、いよいよ目的の実現となるはずです。

しかし、敗戦国はその運命を戦勝国に握られているものであり、自国の理想を掲げる事など到底叶うはずもありません。そもそもそこに正義を求める事自体がナンセンスなのであり、ただただ羞恥と屈辱に塗れながら耐え忍ぶしかないのです。それともそれは戦争を知らない世代のエゴでしょうか?

1945年5月、無残な廃墟と化したベルリン及びドイツ領土は、戦勝4カ国によって分割統治される事となります。そこでは兵士は自失し、国民は餓え、略奪や強姦が横行する等まさに地獄絵のようだったという事ですが、それが戦後ドイツの現実でした。

ナチズムとの決別…ドイツ再建はここから始まります!

それが戦勝国による占領政策だとしても、そのイデオロギーからの脱却は戦後ドイツが避けて通れない問題であり、何よりもドイツが再び自主独立を成して世界に認められる国になる為に不可欠である事に間違いありません。

しかし、時代は新たな局面を迎えていました。それは2つのイデオロギー…ソ連を代表とする共産・社会主義陣営とアメリカを代表とする資本・自由主義陣営との対立。当然ドイツもその長く冷たい戦争に巻き込まれていきます。いや、むしろドイツはその戦争の最前線に立たされる事となったのです。

ドイツ民主共和国(東ドイツ)と、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)…

ドイツは引き裂かれ、それぞれが復興の道を歩む事となりました。

しかし、ソ連式共産主義による監視体制をとったSED(ドイツ社会主義統一党)独裁の東ドイツと、マーシャル・プランを経てアメリカ流の自由な市場を展開して「経済の奇跡」を起こした西ドイツでは、その後の発展には雲泥の差がありました。経済の格差が拡がっていったのです!

東ドイツはソ連への賠償や労働者の暴動を乗り越えましたが、最大の問題である東から西への、しかも週に数千人という単位での人口流出には頭を悩ませる事となりました。それは戦後復興に欠かせない労働力、ましてやそれが専門技術を身につけた言わば未来を築くべき者達の流出なら尚の事です!

東ドイツの危機感は強まります!何としても人口流出を食い止めなければなりません!

そして1961年8月13日…

東ドイツは西ベルリンと面する国境に有刺鉄線を張り巡らします!それが最初の「壁」となりました。

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In des Lebens FruehlingstagenIst das Glueck von mir geflohn!

人生の盛りのただ中で幸せは私から消えていった。

Wahrheit wagt’ ich kuehnzu sagen, Und die Ketten sind mein Lohn.

勇気を出して真実を語ったが、その報いがこの鎖だ。

Willig duld ich alleSchmerzen, Ende schmaehlich meine Bahn,

潔くあらゆる苦痛に耐えよう。私は私の行く道を汚辱に満ちて終えるのだ。

Suesser Trost in meinemHerzen, Meine Pflicht hab ich getan!

私は義務を果たした。そう思うと、私の心は優しく慰められる。

Und spuer ich nichtlinde, sanft saeuselnde Luft? Und ist nicht mein Grab mir erhellet?

私が感じているのは穏やかな優しくそよぐ風ではないのか?私の墓場は明るく照らされているのではないだろうか?

Ich seh, wie ein Engel imrosigen Duft Sich troestend zur Seite mir stellet.

私には天使がバラ色の香りに包まれて、私を慰めながら私の傍に立っているのが見える。

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ヴィルヘルム・ピークヴァルター・ウルブリヒトはKPD(ドイツ共産党)として活動を始め、1946年4月にSPD(ドイツ社会民主党)を吸収してSED(ドイツ社会主義統一党)を結成しますが、それはソ連の共産主義を規範としており、それこそがドイツ復興を成すものだと信じられていました。

「共産主義」とは…?いや、そもそも「理想的な社会」とはどのような社会なのでしょうか?

かつて原始の社会にも「不平等」という概念はなかったのか…

この世に人類が誕生して以来、力ある者とそうでない者は、その「差」を確固たるものにする為、あるいはそれを埋める為に戦いを繰り返して来たわけですが、その結果、人間社会には「階級」というものが生まれ、それは時代や地域を問わず「搾取する者と搾取される者」という構図を生みだしたのです。

やがて、虐げられし者達は心の救いを他に求めます。
この世の何処かに理想的な社会があるのではないか…?

主人や奴隷といった関係はなく誰もが自由であり、財産は皆で共有して必要な時に必要な分だけを使うので私有財産という概念は存在しません。人々は同じように清潔な衣服を身にまとい、家畜や農作物、自然の恩恵も皆で分かち合い、各々が自身の業に勤勉であり、仕事の時間外は趣味や研究、芸術活動に費やす事が出来るのです。

それは階級差のない平等な社会…

やがてその空想が科学となった時、心のユートピアは現実世界に現れてくるのです!

資本主義はその性質上、その生産関係がもはや生産力を発展させる為の足枷でしかなくなり、限界に達した資本主義は崩壊し、プロレタリアートによる社会主義革命が起きるに至ると言います。プロレタリアートはブルジョワジーからの不要な搾取を受ける事もなければ、剰余を独占される事もありません。

そして、永き階級闘争の歴史に終止符が打たれるのです!

やがて人類は真実の自由を手にする事が出来るでしょう!それは偽りの自由や形だけの自由などでは決してありません。それは人間を物質的なモノへの隷属から解放し、完全な自己充足の世界へと導きます!人々は各個人の能力に応じて働き、必要に応じて受け取るのです!

かくして、現実世界に現れたユートピア、地上の楽園、その名は「共産主義」…

これで世界は平和になる…、そう信じたのです。

この共産主義という名の「幽霊」の手によって…

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Heil sei dem Tag, Heilsei der Stunde, Die lang ersehnt, doch unvermeint,

良きこの日、良きこの時を讃えよう。待ちに待ったこの時が突然思いもかけずに訪れた。

Gerechtigkeit mit Huld imBunde Vor unsres Grabes Tor erscheint!

正義と慈愛が共々に私達の墓場の門の前に現れた。

Des besten Koenigs Winkund Wille Fuehrt mich zu euch, ihr Armen,her,

至高の王の御指示と思し召しにより、私はお気の毒な皆さんの所へ来た。

Dass ich der Frevel Nachtenthuelle,Die all’ umfangen schwarz und schwer.

私は全てを暗く重く包んでいた悪事の夜に夜明けを告げる為にやって来た。

Nein, nicht laengerknieet sklavisch nieder,Tyrannenstrenge sei mir fern.

さあ、もう奴隷のように跪くのを止めるがよい。暴君の厳しさは私とは無縁だ。

Es sucht der Bruder seineBrueder, Und kann er helfen, hilft er gern.

兄弟はお互いに求め合う。助けられる時は喜んで助け合う。

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結果的に、共産主義宣言の根幹であるマルクス主義が提唱した資本主義の崩壊や、国境を越えたプロレタリアートの団結などは、現実世界では起こり得ませんでした。何故ならそれは、あまりにも人間社会の現実や人間性を無視したものだったからです。

所詮、空想は空想でしかなかったということでしょうか…?

マルクス主義が政治綱領として採用される事はありませんでした。それでも「共産主義」が消滅する事はありませんでした。それどころか、共産主義は修正を重ね、その歪んだ教義を現実世界で実現させる為に、徹底した監視体制、暴力的な支配体制を強化させていきながら、モスクワから第三世界へと拡大していったのです!

それはまさに「狂気」そのものでした…

そして東ドイツもまた、「共産主義の狂気」を孕みながら戦後の瓦礫から復興するのです。西ベルリンを囲む形で建設された「ベルリンの壁」こそは、まさに東ドイツの狂気が具現化されたものでした。

今世紀に入ってから見つかった当時の東ドイツ文書には、ベルリンの壁を越えて西側に亡命を図る者は子供に対しても躊躇せず銃撃を加えることが指令されていたという事です。事実、多くの者が国境警備兵により射殺されています。彼らは皆、自由を欲しただけの普通の人々でした。

東ドイツにはIM(非公式協力者)と呼ばれる者達も存在しました。彼ら「密告者」は、日々の言動などをもとに反体制派と思しき者の情報を秘密警察(国家保安省:通称「シュタージ」)に提供します。IMは一時20万人近くいたとの事ですが、それは同僚や友人、時に伴侶までがIMであるという事さえあったのです。

IMには体制に忠実であった者もいれば、あるいは体制に非協力的な者は出世や進学といった社会的希望は望めないという脅しにより、仕方なく協力した者もいた事でしょう。何よりも、シュタージによる圧力は恐怖の対象でした。監視や尋問、盗聴といった執拗なまでの人権侵害がしきりに行われていたのです。

時に監禁された者もいました。食事も満足に与えられず、眠る事はもちろん横になる事さえ許されず、数十時間尋問は続けられるのです。やがて精神に異常をきたし、そして自白に追い込まれるのです。彼らは「社会主義の敵」には容赦なかったのです。

自由を阻む壁が、狂気を孕んだ日常が、そこにありました。

重く冷たい空気が、東ドイツを覆っていたのです。

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Bestrafet sei derBoesewicht, Der Unschuld unterdrueckt.

罪の無い人を弾圧する、悪者は罰せられるのだ。

Gerechtigkeit haelt zumGericht Der Rache Schwert gezueckt.

正義は悪を裁くべく、抜き身の復讐の刃を手にし構えている。

Du schlossest auf desEdlen Grab, Jetzt nimm ihm seine Ketten ab

お前はこの気高い人の墓を掘った。今度は彼の鎖を外すのだ。

Doch halt! Euch, edleFrau,allein, Euch ziemt es, ganz ihn zu befrein.

いや待て!気高き女性よ、貴女こそ彼を自由にするのに最も相応しいお方だ。

O Gott! Welch einAugenblick! O unaussprechlich suesses Glueck!

おお神よ!何と言う感動のこの時!幸せに酔うこの気持ちを何と言ったら良いのだろう!

Gerecht, o Gott, ist deinGericht, Du pruefest, du verlaesst uns nicht!

おお神よ!あなたの裁きは正しい。あなたは試練を与えられるが私達をお見捨てにはなりません!

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1980年代後半、ソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフが提唱したペレストロイカは東欧世界の民主化運動を加速させ、その波は東ドイツにも押し寄せます!

脱東ドイツの群衆は増え続け、そしてこの時、汎ヨーロッパ・ピクニックに代表される民主化への熱望は最高潮に達しました!さらに東ドイツは深刻な財政難に面しており、ヴァルター・ウルブリヒトの跡を継いだエーリッヒ・ホーネッカーに成す術はなく、彼はSED書記長の座を退きます。

そしてドイツは、1989年11月9日を迎えるのです!

その日の夕刻、SEDのギュンター・シャボウスキーは生放送の会見にて、「ベルリンの壁を含めた全ての国境からの出国を認める」という新法案を発表しますが、実はそれは誤りであり、正しくは「壁を除く国境からの出国規制緩和」でした。しかも彼は「私の知る限り今からすぐに!」と発表します。放送を聞いていた東西ベルリン市民は次第に壁に集まりました。

期待と不安が入り交じる中、ベルリンの壁は数千数万の自由を求める声に囲まれます。そして、ついにゲートは開放されたのです!その瞬間、辺りは数千数万の歓喜の声で満ち溢れました!

そして1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに編入される形で、東西ドイツの統一が実現します。東西ベルリンは「ベルリン」となり、4カ国の共同統治は終了し、ベルリンはドイツの首都となりました。それはベルリンの壁崩壊からわずか11ヵ月後の事です。

「狂気」は去りました…

これで人々は平和に生きる事が出来るのです。

いや、はたしてそう言い切れるものでしょうか?

男達は10年越しのトラバントの手入れに余念がありません。女性達には産み、育て、働く環境もありました。大人達はモカフィックスゴールドで一服し、子供たちはザントマンに夢中です。若者たちは向こう側のテレビやラジオの放送をこっそり受信してはジーンズやロックに憧れました。モントリオール五輪サッカーで金メダルを勝ち取った際にはさぞ町中が興奮した事でしょう!

東ドイツは41年間存続しましたが、当然その間にも人々は…、自動車整備工も販売員も…、消防士も学校教師も…、家具職人も料理人も…、宇宙飛行士もタクシードライバーも…、人々は仕事や暮らしに直向きに、人生の喜びを見出し生きてきたのです。

それはどんなイデオロギーにも縛られない人間の自由な生命の躍動です。その躍動を感じられる社会こそが「理想的な社会」と言えるのかも知れません。

ちなみに、ソ連が崩壊したのは1991年12月26日の事です。

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2009年11月9日…

「ベルリンの壁」崩壊20周年にあたるこの日、ドイツでは壁のように大きな牌を使ったドミノ倒しのイベントが行われました。ブランデンブルク門で記念式典は行われ、かつて壁があった場所に並べられた発砲スチロール製の牌は、集まった人々の歓喜の声に後押しされて勢いよく倒れていったと言う事です!ユニークなイベントですよね!

かつて、ベルリンの壁を越えようとして射殺された者の数は現在もなお調査中との事であり、数百名とも数千名とも言われていますが、壁の存在自体が心身に与えた影響を考えれば、それは数で計れるものではないのです。

東西統一後、東ドイツマルクはその価値を失い、紙幣はただの紙切れとなりました。もちろん政府は旧東ドイツ地域に多額の投資を行い「東の建設」に着手していました。インフラを整え、旧西ドイツ人が東側に家を建てる場合は減税措置を設け、西側企業の東側進出には援助金を出したのです。

それでも失業や貧困といった現実が旧東ドイツ国民を襲いました。ですがそれは、東西のドイツ人それぞれの労働やサービス、商売や契約といったことに対する価値観がまるで違っていた事による戸惑いと敵意が、ある種の差別意識を生んだ結果なのかも知れません。

東ドイツ経済では、生産目標・労働賃金・商品価格などを国家が規定するいわゆる「計画経済」でした。そこでは皆平等に賃金が支払われます。意欲的に働いてもそうでなくても賃金は同じです。失業もありません。仕事すら自分に合う合わないは別にして政府が用意してくれたのです。

それをユートピアととるか否かは意見が分かれますが、少なくとも「昔は良かった…」と言う旧東ドイツ人は現在もいるのです。彼らは共産主義の暗面を非難しつつも、資本主義のシステムには馴染めずにいるのです。彼らは旧東ドイツ地域の経済発展を望みながらも、古き良き時代(オスタルギー)に想いを馳せるのです。

競争社会が必ずしも人を幸せにしないのは百も承知ですが、それでもベルリンの壁は悲劇を生むものでしかありませんでした。すでに存在しない事がそれを物語っています。ですが、「モラルとは立場や時代と共に移ろいで行くもの」です。忘れてはならないのは「歴史は片側のみが造っているのではない」という事です。それは語り継ぐべき人類の歴史です!

21世紀とは言え世界にはまだまだ「壁」は存在している事でしょう。宗教やイデオロギーが異なれば意見が食い違うのは当然なのです。しかし、他の手段をもってする政治の継続に訴えなくても良いように、しっかりとした政治を継続させてほしいものです。

何だかんだと日本もいろいろありますが、パリッと香ばしいソーセージを片手にキンキンに冷えたビールをグイッと飲み干す…現状そんな喜びを味わえる日々に感謝です!

お隣りさんも南北統一出来れば良いのですけどね…ホント!

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参考

◆「共産主義が見た夢」(クロノス選書)
リチャード・パイプス 著  飯嶋貴子 訳

◆「マルクス主義とユートピア」(紀伊國屋書店)
坂本慶一 著

◆「ベルリンの壁の物語 上・下」(原書房)
クリストファー・ヒルトン 著  鈴木主税 訳

◆「フィデリオ」(音楽之友社)
ベートー・ヴェン 作  荒井秀直 訳

◆Wikipedia

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