♯005 兵どもが夢の跡…

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その日、混乱冷めやらぬ鎌倉に又も激震が走りました!

平頼綱(たいらのよりつな)、死す。」

その衝撃は各地を駆け巡ります!そして、報せは鎌倉から遠く離れた肥後国海東郷にも届いたのです。

報せを受けた彼の心境たるや如何ばかりか…

彼がこの地の地頭となって、すでに20年近くの歳月が経過していました。彼は民百姓を気遣い、交易に精を出し、神仏を尊び、それは見事にこの地を治めていたのです。

そんな彼もかつては無足の身…今の自分がこうしていられるのも貴方のお蔭ですと、今は亡き大恩人への追悼の思いを噛み締めながら、そう独りごちていたのかも知れません。

共に国難に当たってはその心意気を誉め、健気な直訴を聞き入れてはその武功を認め、二度目の大戦においてはその働きを称えてくれた…

その恩情に報いる為にも、彼は鎮魂と報謝の念を込めて「綴る」のです。

時は正応6年(1293年)初夏の頃…

彼の名は竹崎季長(たけさきすえなが)、激動の鎌倉時代末期を生き抜いた御家人でした。

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訴訟敗れて 明日も無足 季長一党 ここにあり!

手柄立てるは 一番乗りぞ 景資(かげすけ)誉める 心意気!

毒矢銅鑼の音 何するものぞ 馬駆け賞賭け 命懸け!

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所領を安堵する「御恩」に対して公事・軍事的に「奉公」する、それが鎌倉幕府における将軍と御家人の関係でした。御家人、つまり武士にとって所領安堵こそが一番の望みだったのです。

そもそも武士とは、その起源が何であれ武を以て家を成してきた者達です。

武士にとって所領とは、まさしく祖先が「武を以て家を成し」て治めてきた土地なのです。それは単なる経済基盤ではなく、祖先の武名が生きて魂が眠る場所なのです。まさに「一所懸命」と言われる所以です!

しかしながら、中世武士の遺産相続は分割相続を行います。武家の者は遺産たる所領を分割しながらも、同じ一門として惣領の指揮の下に庶子達が結集するという体制をとっていました。すると当然、代が重なれば一人当たりの土地が小さくなってしまいます。血縁の結びつきも希薄になるというものです。

そして13世紀も末になると惣領制支配は弱まり、惣領の命令に背いて独立を希望する庶子も増えてくるのです。幕府に正式に独立を認めてもらうべく申し立てする者も出て来ます。しかしそれは、惣領との対立にも繋がるわけであり、おそらく相続の際に土地を巡る身内同士の争いが起きる事もあったでしょう!

その結果、大事な所領を他の者に奪われる事もあったのです。そんな彼等は何としても手柄を立てて新たに所領を得る必要がありました!

鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡(あずまかがみ)によれば、「武士たる者は自らの所領によって自活すべきであり、所領を持たずに他の武士の援助によって生活している者は、独立の武士とは言えない…」との記載があると言います。

やはり武士の本懐を遂げるには「所領」が不可欠なのです!

「無足の身」であった竹崎季長は、さぞ辛い思いをした事でしょう…

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出家覚悟で いざ鎌倉へ 御恩奉行も 骨折れる!

馬に所領に 故郷に錦 ころはた差さむ 肥後もっこす!

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弘安7年(1284年)、御恩奉行も務めた鎌倉幕府の重鎮である安達泰盛(あだちやすもり)は、幕府の基盤強化の為に幕政改革を推し進めます。将軍の権威を発揚させ、御家人を保護し、幕府主導による政治体制を確固たるものにしようと考えたのです。後に「弘安徳政」と呼ばれるその改革は、さらなる蒙古襲来を見据えると共に、北条得宗家の権力を抑制するという目的もありました。

これに対抗するのは、平頼綱を筆頭とする北条得宗家の御内人でした。御内人とは得宗家に仕えた武士の事です。しかし、この時の得宗である北条貞時(ほうじょうさだとき)は13歳であった為、平頼綱が実際の指揮を取っていました。

両派の対立は日を追うごとに激化、ついに臨界点に達します!

弘安8年(1285年)、北条貞時の邸に出仕した安達泰盛が御内人に襲撃されるという事件が発生します。これがきっかけとなって戦となりましたが、後手に回った安達方は苦戦を強いられました。そして、将軍御所は延焼、安達泰盛は自害、安達方は敗北を喫しました。

両派の争いは鎌倉だけに止まらず、各地で勃発します!九州では、父である安達泰盛の代理として肥後守護の政務にあたっていた安達盛宗(あだちもりむね)が、蒙古襲来の際に日本勢を指揮した少弐景資(しょうにかげすけ)らと共に戦いますが、善戦むなしく敗死しました。

安達一族ならびに各地の安達派の御家人の多くが、この戦いで命を落としたのです。

安達泰盛の改革は撤回され、北条得宗家の権力はますます旺盛になりました。それは同時に、平頼綱の権勢が強化される事を意味します。そして、幕政を意のままに操る平頼綱の恐怖政治が始まるのです。

しかし、成長した北条貞時は、次第に平頼綱の専制に不安を抱くようになりました。或いは不満を抱いたのかも知れません。そんなある日、鎌倉を大地震が襲います!鎌倉は騒然となりましたが、北条貞時はその混乱に乗じて平頼綱を襲撃、自害へと追い込みます。平頼綱による恐怖政治は幕を閉じました。

時は正応6年(1293年)初夏の頃…

その後、安達氏は幕府中枢に復帰していく事になります…

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二度の襲来 船を乗り継ぎ 脛当(すねあて)被って 大手柄!

鷹島奇襲の 戦後報告 大した奴よと 守護代理!

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その絵巻物は後に蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)と呼ばれ、当時を知る為の貴重な文化財として現代に伝わっています。そこには大恩人に対する鎮魂と報謝の念と、ダイナミックに生きた一人の御家人の姿が描かれているのです。

彼は日々の暮らしもままならぬ無名の若者でした。しかし、自分の「弓箭の道」を信じ、ただただ一生懸命に生きたのです!そういう者にこそ「神風」は吹くのかも知れません!

まさに人間・竹崎季長の命が溢れんばかりです!

文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)の蒙古襲来は、日本にとって「未曾有の危機」でした。しかし、そんな激動の時代でも彼のような名もなき武士達は自分の「生」を貫いたのです!蒙古・高麗軍の意図や戦力はどうあれ、それに打ち勝ったのは確かに「日本の力」でした!それは語り継ぐべき人類の歴史です!

そして現代、日本は新たな「未曾有の危機」に直面しています!「政権交代」が流行語大賞になるという事は、それだけ変革が渇望されているという事なのでしょう!

奮い立て!覚悟を決めよ!激動の時代だからこそ立ち上がるのだ!武士(もののふ)の国の子らよ!

「草食男子」の諸君!肉を食おうじゃないか!肉を!

「歴女」のみなさん!今度ヒストリカルトークで盛り上がりましょうね~♪

それでは皆様!良いお年を…

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参考

◆「鎌倉びとの声を聞く」(NHK出版)
石井進 著

◆「鎌倉武士の実像 ―合戦と暮しのおきて― 」(平凡社)
石井進 著

◆Wikipedia

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